枚のこと 4月11日, 2021
「禰豆子」なる女の子が口に竹の切れ端を銜えている図は頻繁に見かけるので,「鬼滅の刃」についての知識や関心がほとんどゼロの者でも見知っていた。
この画像を最初に見た時,自然と思い出したのは「枚」。「ばい」と読む。<昔,夜討ちなどのとき,声を立てぬように兵士の口にくわえさせ,ひもでくびに結びつけた,箸のような木。馬にも用いた。>(漢語林,枚)
兵書や歴史の文章でよく見かける物だと思う。
項梁再破秦軍,有驕色。宋義諫,不聽。秦益章邯兵,夜銜枚擊項梁,大破之定陶,項梁死。
『史記』高祖本紀 秦二世二年(『新釈漢文体系』史記二ではp.521)の例。「項梁は,再度秦軍を破ったので思い上がる気配であった。宋義が諫めても聞きいれない。秦は章邯の軍勢を増員し,夜間に兵に枚を銜えさせ(夜襲して)項梁軍を定陶で撃破した。項梁は死んだ。」
「バイ」はこの字の漢音。我々にとっては「1枚,2枚」の「マイ」(呉音)が普通の読みだけど,「枚乗(バイジョウ)」の例もある。<前漢の文学者。賦にすぐれ,「七発」は,その代表作。>(漢語林)
野狐禅を散らす 11月11日, 2013
まだ文章の持つ力も言葉の魅力も知らなかったころの事、「野狐禅を散らす」という表現に出会った。何となく分かるものの、どうもわかった気がしない。前後の文脈を追ってみても読み取れない。家にある辞典をすべてひっくり返しても意味がわからない。わからない分だけ何としてもその語句の意味を知らずにはおけなくなった。
当時高校生だった私は、自分が暮らしていた町の図書館は遠くて大変不便だったので、自転車で隣町の図書館に行ってみた。そこは、今は移転してなくなってしまったのだが、前庭に機関車が展示してあるようなありふれた場所で、とても自分の「荘厳な勉強」の役には立ちそうもないように思えたのを覚えている。不思議なことに、通っていた学校で先生にこの語句の意味を尋ねた記憶がない。聞かないまでも、言葉の意味を調べる際の基本的なやり方は知っていたろうに、手に余る難しい語に出くわして逆上し、自分独りで手当たり次第に調べてやろうなどと不逞にも考えたのかもしれない。
ところが、その図書館の辞典の棚の前に立ち、最初に見当をつけた辞典を繰ると、事は意外にも解決されてしまった。それまでの何日もの疑問が全て説明されている。例示されていたのも、驚いたことに今知りたいと思っていたまさにその詩人の詩句だった。これは、誰にでもある辞典、辞書との出会いであろうが、自分自身に起こった場合は常に新鮮である。覚えている限りでは、これが人生初めての「調べ物」だったかと思う。
私自身は、そのままこのような趣味の延長で、それこそ不謹慎とも言えそうな動機なのだが、漢字を読むこと、古典についてその魅力を話すことを仕事とするようになった。その後、ごくわずかな関わりではあるが、その疑問を氷解させてくれた当の辞典の増補作業に加わることもでき、持ってはいてもほとんど開いたこともなかった『全唐詩』などの大部の詩集を、一ページ一ページ読む機会を得ることもできた。
改めて考えてみると、古典を相手にしてきたからというわけではあるまいが、既知の事柄では理解できないものを本で調べることが単純に好きだ。そんな自分にとっての古典は、自分の内部での作業以前に常にまず他者が必要となるものである。つまり、本や人に聞かなければ自分でいくら考えてもわからないのだ。
今、国語科に対する時代の要請は、受動的な鑑賞型から、より能動的な表現型に向いている。そして、自分の考えや感情を表現するには、その前作業として「調べる」行為が不可欠であり、辞典類を調べる大切さが一段と増している、と言える。
高校生たちがよく口にし、また、世の中で繰り返されている陳腐な駄洒落でもあるが、「漢文はチンプンカンプン」だ。しかし、物事を知るということは、漢文に限らず、そう簡単なことではない。現代の高校生世代にとって、漢文は以前にも増して難しいようだが、わからないという前に少し自分で調べる努力をしてみなければ。調べてみて得られた結果は単純なものかも知れないが、結果以上の収穫が思わず得られる場合もある。そのように教え続けていくことができればと思っている。
さて、発端の言葉の意味であるが、「野狐禅」とは、
真実に参禅もしないで、悟つた風をよそほひ、他を欺き誑かすを以て、野狐に喩へてかくいふ。(『大漢和辞典』)
と、今では自分の机の脇に並べてあるその辞典は解説している。
「並轡」は何を並べるのか 3月11日, 2011
以前、名大出版会『平生釟三郎自伝』について書かれた文章を読んでいて気になる記述に出会ったことを思い出した。自伝原文は、「今や、我国は、世界的舞台に出で、欧米に於ても富強国と轡を連べて馳騁するの境涯に立てり。」となっていて、「轡」に「タヅナ」とルビが附いているそうだ。筆者は、このルビを「クツワ」とすべきで、「くつわは馬の口にかませるもので、それをならべるから、馬がせりあいつつ前進する意になるのだ」と述べていた。この方は中国文学者で、私も秘かにファンの一人なので意外だった。
何が意外だったかというと、確かにこの字の訓は「クツワ」が普通であろう。『和名抄』にも、「轡 兼名苑云轡音秘、訓久豆和、都良俗云久都和」とあり、『日本国語大辞典』でも、「1 くつわ。(馬の)口の中に入れる嚙(はみ)と面懸(おもがい)にとりつける立聞(たちぎき)につづく鏡(かがみ)、手綱をつける承鞚(みずつき)から成り、鉄または銅でつくられる。鏡の形状により、…などの種類がある。2 おもがい。3 手綱。4 紋所の名。…」とあることにも表れている。(4の紋所は、鏡の意匠によるもの。)
しかし、「轡」は必ずしも「馬の口にかませるもの」を意味するわけではない。『礼記』曲礼上には、「執策分轡…」(<着衣のゴミをはたき落とした上で、馬車の右側から身をかがめて御者席に着き>鞭を手にとり、手綱を左右の手に整えて持ち…)と御者の作法を説明する表現があり、「轡」は「手綱」を意味している。『史記』『漢書』には、「按轡」「結轡」「執轡」「攬轡」「奉轡」などが見える。「並轡」は無い。『文選』にも「並轡」は無いが、「轡」は53例見え、ほとんど全てが明らかに「手綱」の意味である。「轡」は「手綱」。これが典型に思える。『大漢和辞典』がこの字を「一 馬の銜にとりつけて馬を制馭するつな。二 くつわ。」と説明しているのも、第一義が「手綱」であることを反映しているものに思える。つまり、「轡」は、漢文脈で用いられる場合は、むしろ「手綱」を意味するものが多いはずだ。冒頭の「轡を連べて」に附けられたルビは間違いとは言えないように思える。
また、「並轡」という表現を探すと、『人物志』・杜甫詩(「酒酣並轡金鞭垂」)に1例ずつあるものの、宋代以降に用例の多い語彙のようで、『佩文韻府』は、『人物志』・『事文類聚』・杜甫詩・蘇軾詩・楊万里詩・范成大詩を挙げている。他にも『唐詩紀事』や『旧唐書』、『三国志演義』などに例が拾える。それらは、「手綱を並べる」意味であることを明瞭に示しているとは言いがたいが、「轡」の第一義が「手綱」であり、馬の口中に噛ませるものを特定して言う場合には「銜」とすることが多いことを考慮すると、「手綱を並べる」ことから「並んで馬などを進める」意味を生んでいると考えるのが自然であろう。
上記の『事文類聚』・『唐詩紀事』の用例は、「遂に轡を並べて詩を論ず」という句で、「推敲」故事中のよく知られた表現。
賈島赴挙至京、騎驢賦詩、得「僧推月下門」之句。欲改推作敲。引手作推敲之勢未決。
不覚衝大尹韓愈。乃具言。愈曰、「敲字佳矣。」遂並轡論詩久之。(『唐詩紀事』)
最後の句は「そのまま並んで進み、しばらく詩作をめぐって意見を交換した」となる。高等学校の漢文教科書では、誤解を避けようと、「轡」字に読み仮名を「ひ」と附け、語注に「手綱」と記している表現だ。(追記2012-03-26:賈島の故事では、韓愈の乗った馬車と賈島のまたがった驢馬とを並べて進んだものと推測されます。そのことを考慮すると、「並んで馬を進め」としていた表現が不適当であることに気づいたので、表現を修正しました。)
意味にズレがある字といえば、「楓」を思い出しますね。「月落烏啼霜満天 江楓漁火対愁眠」や「停車坐愛楓林晩 霜葉紅於二月花」などの句で知られる「楓」はフウであって、サンカクバフウ(タイワンフウ)・モミジバフウ(アメリカフウ)などをいい、「カエデ」とは異なる植物。しかし、訓は「カエデ」が通用している。フウは葉が互生(互い違いに1節に1枚の葉)し、カエデは対生(1節に2枚の葉)する。街路樹に多く、東京なら駒沢通りの街路樹がフウで、バスからでも確認できる。日本と中国古典で意味にズレがある漢字はこの他にも多い。
[追記 2015-09-03]: フウとカエデの相違点を誤解していたことに気づいたので、末尾部分を修正した。
中国古典で出現頻度の高い文字 2月9日, 2011
漢文で最もよく使われる漢字は何でしょう。漢文語彙中の頻出語となると難しそうですが、よく現れる「文字」なら簡単に確かめられそうです。
少し事柄を絞って、史伝の文章の代表である『史記』を例にとってみます。紀元前1世紀の前漢・武帝の時代に書かれたこの本は、それ以前の文章から借りた文が多いとは言っても、かなりの部分が司馬談・司馬遷の目と手を通過した文字で埋まっています。そこには、総字数を「52万6千5百字」と記しているわけですが、そのように記した詳細な事情は知りません。また、どのようにしてこの数字を数えたのかも知りません。竹簡の枚数から積算したのでしょうか。とにかく、まずは手始めにこの約53万字の中で、出現頻度が最も高い文字を数えてみました。
テキストは色々ありますが、グーテンベルク(Gutenberg)のものが便利。「表」のテキストは省略されていますが、50万字を越えるものなのですから、大勢にそう大きな差異はないでしょう。簡単に サイト からもらえます。案外なことに、筆者が精魂傾けた本文は、ファイルサイズで言えば2MBほど。ごく小さな容量の外部メモリーにでも入ります。私は、普段利用するわけでもないのですが、iPod touchにお守りのように入れています。大幅縮刷の会注考証本史記でもポケットやカバンになどとても入らないことを考えると、ちょっと感無量です。
数える際に除外したのは、冒頭と末尾の半角英数字(改行文字も)、全角の句読点・括弧類・スペース・その他記号類です。延べ文字数(総文字数)は、512,724字ありました。異なり文字数では、4,779字あります。(追記2011-12-21:この数字はグーテンベルクのテキストをそのまま数えたもので、以下もそれに従っています。ただ、少なくとも『史記』について見る限り、「呂不韋列伝」が二重に入力されていること、「刺客列伝」が落ちていることに気づきました。そのため、この数字はあくまで参考程度にすべきであって正確なものではありません。以下に扱う他のテキストについても同様で、あくまでグーテンベルクのものを数えたにすぎないことにご注意ください。)
この数字が『史記』中に挙げられる文字数より少ないことは無視することにして、さて、出現頻度が高い文字は…。
「之」:13,446回(2.62%)、「王」:8,255回(1.61%)、「不」:7,907回(1.54%)、 「以」: 7,473回(1.46%)、「為」:7,377回(1.44%)、「子」:6,566回(1.28%)、…
でした。括弧中のパーセントで示す数字は、出現率を示します(頻度を総字数で割りました)。上位100字の出現率合計は46.7%で、数字の上では、『史記』の半分近くは100字からなっているとも言えそうです。
同じくGutenbergの『漢書』(713,882字、異なり字数は4,923字)もやってみると、
「之」:15,889回(2.23%)、「以」:10,679回(1.50%)、「為」:10,423回(1.46%)、 「不」: 9,924回(1.39%)、「王」: 6,721回(0.94%)、…
でした(上位100字の出現率合計は、41.7%)。
中国の歴史の文章を考えた時、最も頻度が高いのは「之」で間違いないようです。『左伝』でも180,494字中7,287回(4.04%)、『国語』でも3,275(4.65%)です。史伝以外も試してみると、例えば『論語』では「子・曰」が多いのは予想の通りとしても、それらに次いだ3番目が「之」で、16,001字中の613回(3.83%)となっています(他は省略しますが、この情況は変わらないようです)。また、実詞では下表の第6位以降も含めると「王」の頻度が高く、「子」「其」「人」「天」などが目立ちます(ある種予想通りでした)。国名の出現率等からは、時代背景が読み取れるのですが、当然の結果とも言えますので詳細は省略します。自然言語処理からはほど遠い、中国古典によく現れる文字の「観光旅行」めいたものとなってしまいましたが、中国古典の風景の一端はまあ窺えます。「趣味の中国古典散策」としては、まずまず遊べました。
使用したスクリプトは、ありきたりのものです。 countK.pl は延べ文字数・異なり文字数を表示します。 freq.pl は、頻度31以上の文字を表示します。エンコーディング処理などあれこれ不徹底ですので、Macでないと私の期待するようには動かないでしょう。例によって、自分の目の前で自分用に動けばよい、というのがモットーですので(追記2011-12-21:スクリプトに入力ミスがあるのに気づき訂正しました)。Gutenbergを使えばかなり遊べることは確か。大プロジェクトですね。
陶淵明の「商音」について 03月25日, 2007
■はじめに
陶淵明に「荆軻を詠ず」という詩がある。
燕丹 善く士を養ひ 志は強嬴に報ゆるに在り
百夫の良を招集し 歳暮に荆卿を得たり
君子は己を知るものに死すと 剣を提げて燕京を出づ
素驥 広陌に鳴き 慷慨して我が行を送る
30句からなる五言の古体詩である。題材を『史記』刺客列伝に描かれる荆軻にもとめ、「惜しいかな剣術疎なり 奇功遂に成らず 其の人 已に没すと雖も 千載余情有り」と結ばれる。続く部分をさらに引用しよう。
雄髪 危冠を指し 猛気 長纓を衝く
飲餞す 易水の上 四座 群英を列ぬ
漸離 悲筑を撃ち 宋意 高声に唱ふ
蕭蕭として哀風逝き 淡淡として寒波生ず
商音には更流涕し 羽奏には壮士驚く
心に知る 去きて帰らざるも 且つは後世に名有らんと
知られた「易水送別」の場面である。「刺客列伝」の該当箇所も引用しておこう。
高漸離 筑を撃ち、荆軻 和して歌ひ、変徴の声を為す。士皆涙を垂れて涕泣す。又前みて歌を為りて曰はく、
「風蕭蕭として易水寒し 壮士一たび去りて復た還らず。」
と。復た羽声を為して忼慨す。士皆目を瞋らし、髪尽く上がりて冠を指す。是に於いて荆軻 車に就きて去り、終に已に顧みず。
宋意については見えないものの、「荆軻を詠ず」が刺客列伝の描写に基づいて筆が進められていることがわかる[注1]。ここで、詩中の「商音には更流涕し 羽奏には壮士驚く」は、「変徴の声を為す」、「復た羽声を為して忼慨す」に拠ったものである。五音と総称される宮・商・角・徴・羽で、「商」と「徴」は、本来別の音であるのに(「変徴」は「徴」より半音ほど低い音)、陶淵明は、なぜ「商音」と言って「変徴」と言わないのであろうか。
■「商」の用例
陶淵明の作品には五音の音名の出現は稀で、ほとんど例が無い。その中で「商」だけは上記以外に五例見られる。
- 「閑情賦」「悲商 林を叩ち 白雲 山に依る」
- 「貧士を詠ず」其三「原生は決履に納れ 清歌して商音を暢ぶ」
- 「辛丑の歳七月、赴仮して江陵に還らんとし、夜 塗口を行く」「商歌は吾が事に非ず 依依たるは耕に在り」
- 「擬古」其二「君に問ふ 今 何ぞ行くやと 商に非ず 復た戎に非ず」(戦争にでかけるわけでもなく)商ーあきないーに行くのでもない。「商」は、商売。)
- 「子に命ず」「御龍 夏に勤め 豕韋 商を翼く」(「商」は、「殷王朝」。)
【悲商は秋風】
1の「悲商」は、『礼記』月令、孟秋(7月)の「其の音は商、律は夷則に中たる」に依拠したものと思われる。「悲しい秋風」といったほどの意味であろう。「商」が秋の西風との関連で用いられる類似の例は、潘岳「悼亡詩」其二「清商 秋に応じて至り」、張載「七哀詩」其二「秋風 商気を吐き」などにも見られ、王逸の「楚辞」注にも、「商風は西風なり。秋気起これば則ち西風急疾なり」とある。この場合、楽音に由来するとは言え、五行思想で商が金に属し、西・秋に関わるものとの意識が強いことの表れととらえるのがよかろう。
六朝期までの「悲商」の語の一般的な使用状況を知りたいと思うが、『佩文韻府』が挙げるのは「閑情賦」のみであり、『文選』にも用例が無いため考えが及んでいない。あるいはこの語は、陶淵明が創出した語と言えるのかもしれない。
【商音は商頌】
2の「商音」は、今問題としている語であり、特に重要である。この語は、『韓詩外伝』巻1、『新序』節士篇などに残る、孔子の弟子原憲が「商頌」を歌った故事に典拠が求められる。[注2]
孔子の死後、清貧に甘んじた故事で知られる原憲を、兄弟弟子で裕福な子貢が訪ね、言った。「ああ、あなたのような立派な方が、どうしてこのように貧を病んでいらっしゃるのか」。原憲は、空を仰ぎ見て答えた。「私は聞いています、財産の無いのが貧、学問を積みながら実行できないのが病であると。私は貧しいが病んではいない」。子貢は、たじろいで恥じいり、挨拶もせず立ち去った。「原憲 乃ち徐に歩き杖を曳き、商頌を歌ふ。」(『韓氏外伝』)
この「商頌」は、『詩経』の「商頌の詩」を意味するものと考えられている。しかし、状況を考えるとどうもふさわしくない。「商頌」と言いながら『詩経』を意味しない場合があるのではないか。『韓詩外伝』、『新序』が原憲の故事の後に挙げているのが、邶風「柏舟」の詩の一部であることも、「商頌」を『詩経』商頌とはとらえていない可能性を示すものであるように思える。
「商頌」が『詩経』のそれを意味するわけではないとすると、「商頌」、「商音」はどのような意味なのか。断定できるだけの材料は無いのだが、これは「胸中の悲しみを表した歌」を意味するものと考えている。「清歌」は、「高い声で歌った」のであろうから(注3)、陶淵明のこの句は、「悲しげに甲高く声を引いて歌った」と理解するのがよいと思う。『文選』には「商音」、「商頌」の用例は無い。
【商歌は悲しい調子の歌】
3の「商歌」は、春秋時代の衛人甯戚が、斉の桓公に認めてもらいたいと考えて歌った故事を踏まえた語で、彼は企図のとおりに異能を見込まれ、その重臣となるのである。『蒙求』の「甯戚扣角」でも知られるこの故事は諸書に言及がある。本文が歌に触れているものに限っても、『蒙求』以外に、『呂氏春秋』挙難、『淮南子』道応、『新序』雑事などが挙げられ、注釈がこの歌を引くものも数えると『史記』、『文選』等々多書にわたる。参考までに、故事の要旨を『淮南子』道応に拠り挙げておこう。
甯戚は、 斉の桓公に仕官したかったが、貧しかったため伝-つて-を求めることもできず、行商して斉国にでかけ日暮れに城門の外に野宿していた。その日、桓公は郊外に客人を出迎えて城に戻ってきた。甯戚は、牛の世話をしながら車の脇に居たが、桓公がやってくるのを望み見ると、悲しげに牛の角を叩きながら早口に「商歌」した。桓公は、それを聞いて異能を認め、大夫とした。
陶淵明は、この故事を承けて「自分を売りこむための商歌は吾が関心事ではない」と表現したわけだ。ここで、「商歌」とはどのような歌を言うのだろう。『史記』鄒陽伝の索隠には、
(甯戚の)事は呂氏春秋に見ゆ。(集解に言う)商歌は、商声を為して歌ふを謂ふなり。或いは云ふ、商旅の人の歌なりと。二説並通す。
とある。「商声を為して歌ふ」というのは、荆軻の「変徴の声を為す」と同様に、「商調(商調式)」で歌うことである。また、或説の「商旅の人の歌」とは、行商の物売りの歌のことであろう。俗謡にかこつけて、自らを認めて欲しい気持ちを歌うというのは、『史記』馮驩の「長鋏の歌」を思わせる。しかし、甯戚の故事の「商歌」は、これらの説明では十分に思えない。
『呂氏春秋』挙難は、原文を「撃牛角疾歌」に作っていて、「商歌」とはしていないため幾分事情が異なるかもしれないが、高誘注に、「歌は碩鼠なり」として、『詩経』碩鼠を引いている(『後漢書』馬融伝注引『説苑』も同様で、「撃車輻而歌碩鼠」として碩鼠を歌ったとしている)。この詩は、重い税を課する君主を大きな鼠に喩えて非難する詩であり、悲嘆の歌とも言える。また、『史記』鄒陽伝集解に「応劭曰はく」として次の歌が引かれる。
南山〓[石+干」たり 白石爛たり 生まれて堯と舜との禅りに遭はず 短布単衣 適に骭に至る 昏より牛に飯して夜半に薄る 長夜曼曼として何れの時にか旦けん
これも牛飼いとしての辛い境遇を嘆く歌と言えよう。類似の歌が『文選』の成公綏「嘯賦」李善注などにも引かれている。これらの引用されている歌を通して考えると、「商歌」は、「商音」と同じく、何かの歌を悲しげに歌ったと考えるのがふさわしいのではないだろうか。『後漢書』蔡邕伝所載の「釈誨」では、「甯子清商の歌」としていて、「商歌」が「清商」と言い換えられているのもその証としてよいものと考えている。
『文選』には、陶淵明以外の「商歌」が2例あるが、共に甯戚の故事による句であり「商歌」の語義を考えるための糸口にはなりにくい。
- 曹植「七啓」「此れ甯子 商歌の秋。」
- 王褒「四子講徳論」「昔、甯戚 商歌し以て斉桓に干む。」
■商音と変徴
陶淵明が荆軻の「変徴の声」を「商音」として引いた理由を考えるためにその「商」の用例を見てきた。以上を要するに、
陶淵明の「商音」、「商歌」という語において、「商」は、「悲しみを帯びたもの」を抽象的なイメージとして表すもので、五音の商や「商調の音楽」を表すものではない。また、「変徴調」の悲壮な音調を、「商音」と表現したわけで、対句の「羽奏」が『史記』の具体的な表現を襲って「羽調の音楽」を表すのとは違う発想で書かれていることになる。その背景には、五行思想で「商」が秋に配当されていることに表れているように、「悲」が「商」の属性と意識されていたことにあるものと思われる。
触れることができなかった商調(商調式)がどのような音列であるかという点や、変徴調から羽調への転調がどのようなものかという点については、また別の機会にまとめたいと考えている。[注4]
◎文献
- 『靖節先生集』中華書局,1973年
- 『中国古代音楽史稿』楊蔭瀏 人民音楽出版社,1981年
- 『淮南子』 上海古籍出版社(諸子百家叢書),1989年
- 『呂氏春秋』 上海古籍出版社(諸子百家叢書),1989年
- 『韓詩外伝』,『新序』 漢魏叢書本
◎注
- 宋意という人物については、『淮南子』泰族に「高漸離、宋意、為に筑を撃ちて易水の上に歌ふ」とある。また、『文選』雑歌で荆軻の歌として「荆軻歌ひ、宋如意 之に和して曰はく、…」とあるのも同じ人物を言うものと思われる。
- 『新序』は「杖を曳き、履を拖きて商頌を行歌す」としていて、表現を少し異にしている。
- 声の「清濁」をめぐっては、音色の清澄さで語られることが通例であろうが、これらの語の意味の中心は「高低」にあると思われる場合が多い。例えば、『宋書』楽志に「歌声濁者、用長笛長律、歌声清者、用短笛短律」と説明されることや、漢代の「相和歌」の清調は、平調に対して全音高い調子であること等が挙げられる。(この「清調」は、南北朝期に「清商調」と呼ばれるもので、平調の商を主音として、オクターブ上の商、つまり清商までの音階を用いるものである。)
- この事柄については、以前、簡単にまとめたことがある。「漢文教室」第184号 大修館書店 「『変徴の声』とはどんな音楽か」,1998年5月
孟嘗君という呼び名 04月23日, 2000
中国の文章での人物の呼び方の多彩さについては今さら言うまでもないだろう。ある時は姓や名で呼び、またある時は字や地位・役職・諡・号・爵位・排行・愛称で呼ぶ。実に様々な場合が見られ読解を難しくしている。
ここでは、「鶏鳴狗盗」の故事等で広く知られる戦国時代の斉の王族田文(?—前279?)につき、その「孟嘗君」という呼び名の由来をたどり、更に幾人かの呼称についてまとめてみたい。
1 孟嘗君
田文の呼び名に関連して『史記』(巻75孟嘗君列伝)には、
A 孟嘗君、名は文、姓は田氏。
B 嬰卒し、諡して靖郭君と為す。而して文果たして代はりて薛に立つ。是を孟嘗君と為す。
C 文卒し、諡して孟嘗君と為す。
とある。ここで「嬰」(エイ)とは、孟嘗君の父親、田嬰のことである。また、「諡」は、「おくりなして」と読んでおくが、「号」と同義として読むべき所かも知れない。(呂不韋列伝の「諡為帝太后」に付された唐代の注釈である「索隠」に「蓋し号せしのみ」とある。)Cについて「索隠」は次のように説明する。
按ずるに、孟嘗君 父を襲ひて薛に封じられ、号して孟嘗君と曰ふ。此に諡と云ふは、非なり。孟は字なり。嘗は邑名なり。『詩』に云ふ、「常と許に居り」と。『鄭箋』に、「常、或ひは嘗に作る。嘗邑は薛の旁に在り」と云ふは、是れなり。
(孟嘗君は、父の封邑であった薛を継ぎ、孟嘗君と号した。その為、ここで「諡」と言うのは正しくない。孟嘗の孟は字–あざな–であり、嘗は領地の名である。『詩経』魯頌の閟宮に「常と許に居り」とあるが、後漢・鄭玄の注に「常は、嘗とも書き、嘗邑は薛付近の地である」と言うのがそれである。)
田文は、父の跡を継いで一家を立て孟嘗君と号したのであり、死去に際し、諡として与えられたのではないというのだ。また、閟宮の詩は、魯の僖公が国の始祖である周公旦の廟を修理して先祖の祭祀を継いだことを祝い、魯国の安泰を誇ったもの。その本文に「(僖公は)常と許に居り、周公の宇を復す」とあり、鄭玄の注は、右の引用の後に、
『春秋』魯荘公三十一年(前663)「台を薛に築く」とは是れなるか。周公 嘗邑を有するは、由る所未だ聞かざるなり。六国の時、斉に孟嘗君有り。薛を食邑とす。
と続く。つまり、「索隠」は孟嘗君という呼び方について、
- 家を継ぐ時に称したもので、死後付けられたものではない。
- 孟はあざ名である。
- 嘗は領地の名で、薛付近にあった常のことである。
と言っている。この「孟嘗君」という呼び名は、『通典』の言い方を借りれば、「封爵の外に在り別に美号を加え」たもので、君号と呼ばれる。戦国時代の君号は、公子が家を立てる際に名乗ったもので、実際の領地とは別の、名目上の領地によったものである。「戦国の四君」と呼ばれ孟嘗君と併称されることもある趙・平原君趙勝、魏・信陵君魏無忌、楚・春申君黄歇などの例や、秦の涇陽君、高陵君など多くの例が挙げられる。ちょうど我が国の宮家の「宮号」と似たもののようだ。君号は、後には功績ある臣を称揚する為に名目上の土地に因り与えられるようになり、更には、秦の公孫鞅が於・商と付近の15箇所の領地に封じられて商君の号を与えられたように、実際の封邑を冠する例も現れてくる。
孟嘗君の実際の封邑は薛(山東省滕県の東南)だが、名目上の領地である孟嘗の地についての詳細は不明である。「史記会注考証」(以下「考証」)は、中井積徳を引き次のように言う。
孟嘗は、蓋し封邑の名なり。其の地獲ざれば、記載伝はらざるのみ。田嬰、四十余子。而して文は賤妾の子なり。蓋し叔・季に在りて、孟を字とするの理無し。
(孟嘗は多分封邑の名であろうが、その場所が不明であるため記載されていないのだ。田嬰には四十数人の男子があり、田文は賤妾の子であり、兄弟の中で年若かったはずだ。およそ子の中で年下のものが、「初め」「大きい」意の「孟」が字である理はない。)
薛は、春秋時代の侯爵の国で、黄帝の子孫の奚仲が封じられたことに始まり、戦国時代には斉に含まれていた。その墟は薛陵とも呼ばれる。(『資治通鑑』周・烈王六年胡三省の注)また、「常」については、『史記』越王句践世家「常・郯之境」の「索隠」に、「常は邑名。蓋し田文の封ぜられし所の邑なり。郯は…。二邑は皆に斉の南の地なり」とあり、鄭玄の言う地と同一のようである。もともと、嘗の字が常と書かれる例は古文に散見するので、(常が嘗となっている例はあまり見かけないという事情はあるが)、孟嘗という呼び名は、薛付近のこの地に由来するものと一応考えてよかろう。しかし、他に材料が無いこともあって、孟の文字が添えられている理由については、今は保留とせざるを得ない。あるいは、憶測に過ぎないが未知の孟嘗という土地が存在していたのかも知れない。寧ろそのように考える方が他の例を見ると当然のように思える。
2 靖郭君
さて、以上の事情は、靖郭君田嬰についても同様である。 『史記』は、先に挙げたように(前掲B)田嬰の死を記している。しかし、この「諡して靖郭君と為す」に関しても、死後に付けられたものではなく、生前からの号と考えられる。実際の封邑である薛以外に靖郭という土地を名目上の封邑として与えられていたのである。靖郭が地名であることについては、「索隠」が「靖郭、或いは封邑の号」と言った上で、前漢・文帝が駟鈞を靖郭侯に任命している例証を挙げている。(ただし、『史記』孝文本紀のテキストでは「清郭侯」となっている。『漢書』は「靖郭侯」。)この場合も、その地がどこであったかについては不明である。
3 平原君
趙・恵文王の弟の趙勝については、その封邑は東武城(武城とも言う)であったが、孟嘗君と同様な状況で平原君という呼び名が知られている。この平原は、秦漢の平原県・平原郡にあたると思われる。(曹相国世家に付された唐代の注釈の「正義」は『括地志』を引き、「平原故城は徳州平原県の東南十里」と言う。)今の山東省徳州市の南に平原県があり、その付近の土地である。
4 信陵君
魏・昭王の公子の魏無忌は、昭王の死後、異母弟の安釐王が即位した時に、信陵君に封じられている。「索隠」には、
『地理志』を按ずるに信陵無し。或いは是れ郷邑の名なり。
とある。また、「正義」には「信陵は地名」とあって、「考証」は洪頤煊を引き、『水経注』に言う寧陵県の西の葛がその地であるとしている。しかし、夷門の門番の侯生や肉屋の朱亥との逸話を見ても、信陵君は魏の都の大梁で暮らしていたようであり、信陵に実際の領地があったわけではない。この信陵君については、名目上の領地がどのように扱われたかを示す事件が残っている。
趙の平原君の夫人となっていた信陵君の姉は、魏の安釐王の20年(前257)に秦が趙の都邯鄲を包囲した時、救援を求める知らせを魏王と信陵君に寄せていた。しかし、秦の制裁を恐れた魏王は救援に消極的であった。将軍の晋鄙に救援軍を率いて出発させながら、征路の中途で駐留を命じ趨勢を見極めようとしていた。信陵君は、王命と偽って司令官を交代させようとしたが、晋鄙は疑念を持って役目を譲ろうとしない。そこで彼を撲殺してしまい、奪い取った8万人の兵を率いて邯鄲を救ったのである。魏軍を帰国させた後も、王に責められることを恐れて自らは趙に残っていた。また、趙王は救ってくれたことに感謝して城を与えると、魏でも信陵を領地として奉じたというのである(魏公子列伝)。
この末尾部分は、原文では「趙王〓[高+阝]を以て公子の湯沐邑(その税収を沐浴・化粧の費用にあてる地)と為す。魏も亦た復た信陵を以て公子に奉ず」となっている。魏王の側でも宥免を示そうとしたのだろう、信陵を再度奉じている。名目上の地であったものを実質的な封邑として認定したことを言っているのである。
5 春申君
魏の黄歇はこれまでの人々とは異なり、王族ではなかった。魏の頃襄王に仕え、博識で弁が立つことから秦への使者となり、得意の弁説で楚への攻撃を止めさせ、逆に同盟を結ばせた人物である。その同盟の為の人質として太子時代の孝烈王と共に秦に行き、命がけで太子の危急を救った功績から、即位した孝烈王により宰相に任命され春申君に封じられたのである。領地は淮水の北の十二県を賜った。「正義」、「考証」は言う。
正義 四君の封邑は、検するに皆獲ず。唯だ平原のみ地有り。
考証 中井積徳曰はく、「四君皆封号にして諡に非ず。『呉志』に云う、建興二年、鳥春申に見はると。春申の地名たること決まれり。」と。
領地として春申を与えられたというのである。『三国志』呉書巻48、建興2年(253)11月に「大鳥五 春申に見はる」との記事があり、それを瑞祥として翌年五鳳に改元している。
6 蘇秦・張儀
合従連衡で知られる蘇秦と張儀についても本稿に関連する事柄がある。蘇秦が六国の合従を定めて趙に戻ると、粛侯は彼を武安君に封じた。この武安は、邯鄲の西の地。蘇秦がその地を実際に治めた記録はない。名目上の封邑と思われる。(秦の武将白起も功績により昭王より武安君に封じられているのだが、同様にそこを統治した形跡はない。)また、連衡をまとめた張儀は、秦・恵王から五つの領地に封じられ、武信君と号したというが、これも名目上のことである。この武信が地名であることは、項羽の季父の項梁が、自ら武信君と号した事にも表われている。
7 最後に
以上、孟嘗君を中心として戦国の君号が名目上の領地を冠して称されたこと、多くの場合にその地は何らかの理由で選定されるものであるようだが事情が判然としないこと、その地の所在は不明のものが多いことを見た。まとめると次のようになる。
- 公子が名目上の土地を冠して与えられる美号である。
- 勲功ある家臣がある種の爵位として、名目的な領地により与えられる。
- 功臣が実際の封邑により与えられる。
これ以外に、君号が与えられた場合としては、王昭君や卓文君のような女性の例が数多くあるがここでは触れない。
変徴の声 04月12日, 1998
「易水送別」で、荆軻が出発に際して「変徴の声を為す」箇所は有名です。
太子及び賓客の其の事を知る者、皆白衣冠して以て之を送る。易水の上に至り、既に祖して道を取る。高漸離筑を撃ち、荆軻和して歌ひ、変徴の声を為す。士皆涙を垂れて涕泣す。(『史記』刺客列伝)
「変徴」は伝統的に「ヘンチ」と読まれています。この「変徴の声」とは、具体的にはどのような音楽なのでしょうか。
知られている通り「変徴」とは、
・階名で、「徴」よりも半音程低い(変)高さの音。(「宮」を「ド」とすれば、ほぼ「ファ#」に当たる)
・その音を主音とした調子(旋法)。
です。また「声」という語はここでは「楽音の響き」の意味でしょうから[注1]、上の文の後半部は、
「荆軻は、高漸離の筑に合わせて歌った。その筑の音も歌声も変徴調の旋法による悲壮な響きのもので、見送りの者達も皆共に涙を流すのであった。」
という表現にあたると考えるのが良いようです[注2] 。以下、先秦時期の変徴調の旋法について考えることを中心として、関連する事柄として「五声」、「七声」、「十二律」について整理してみます。
■五声、七声は階名
昔の中国の音楽は、五音の音階で構成されていました。その五つの音(宮、商、角、徴、羽)は「五声」とか「五音」と呼ばれます。各音の高さは、「宮」音から考え始めると、その弦を「三分の一長くする」と完全四度低い「徴」音が得られ、更にその(「徴」の)弦を「三分の一短くする」と完全五度高い「商」音が得られます。同様に、三分の一長くして「羽」、また三分の一短くして「角」を得るというように説明されます。(『管子』地員)、このやり方は「三分損益法」と呼ばれますが、今参考までに示せば、仮に「宮」の弦長を81とすると(計算の便宜からこの数を選んでいます。勿論、他の数でもかまわないわけです)表1のような関係になります。このようにしてでき上がる音階は、五度音程を重ねることによる「ピュタゴラス音階」と呼ばれるものと同じものになります。
宮を「ドレミ」のドとすると、徴は完全四度低いのですからソとなり、ソより完全五度高い商はレ、以下羽はラ、角はミということになります。この五声がどのような経緯でそのように命名されたものか正確な事は分かりませんが、その用例は戦国の諸書に散見されます。『春秋左氏伝』、『礼記』、『呂氏春秋』、『管子』等です。
この五声に、ファ#にあたる「変徴」、シにあたる「変宮」を加えて七声と(七音とも)呼ばれます。(表1では省略しておりますが、角から更に続けるとシ、ファ#……となります。)表2で分かる通り、七声の音階は西洋音階に近いものです。ただし、ドレミで表されている階名は、平均律とは微妙にずれています。表中には音程差として上下の音高差をセントで示してあります。この数値は平均律の半音を百とするものです。中国での平均律に類似した音階の登場は、南朝宋の何承天を待たねばなりません[注3]。平均律とは幾分のずれはありますが、中国の古代音階が西洋の音階(ドレミの音階)と比較した時に、まるで異なるものではなく、共通する基盤を持つのは何か不思議な感じがしてしまいます。しかし、これも考えてみれば音楽の本質は一つという純粋な原理に帰結すると思います。
さてこの七声の語ですが、『春秋左氏伝』が初出とされています。また、この頃の遺物からも変音、七声の存在が確認されています。しかし、当時の文献には七声音階に関する具体的議論は見られないため、春秋戦国期には七声音階が広まってきてはいたものの、一般的状況としては五声音階が音楽の中心だったようです[注4]。
■五声(七声)の各名は旋法の名でもある
また、音階の各音は、音階の中の単音を意味すると同時に、その音を主音とする調子も意味します。旋法と言っても良いかと思います。各旋法は、宮を主音とするものは「宮調」というように、その階名に基づいて呼ばれます。五声の各旋法を表3に、七声の旋法の一部を表4に挙げます。(王光祈の表記法による)
五声音階の場合、宮と商、商と角、徴と羽の音程は狭く、角と徴、羽と宮の音程は広くなります。七声音階の場合は、変徴と徴、変宮と宮の音程は他より狭く、ほぼ西洋音楽での半音です。この二つの音程の配置が、その旋法の響きを決めるわけです。また、七声音階の「角調」をみますと、これは西洋の古典音楽での短調と音程の配置が似ていますし、「徴調」は長調に似ています。これまで調子とか旋法とかと呼んできているものは、我々が長音階と短音階とを耳にして感じるように各々違った個性を持っているものなのです。。中国ではそれが五種類、七種類あったということです。(例えば「君が代」を例にとりますと、そのメロディーは、「レドレミソミレ」で始まり、「ドレラソラソミレ」と終わりますが、これは、ここで言う五音音階の商調のものと言うことができます。また、沖縄の古歌などを聞くと平生耳にするものとは異なるメロディーであることが我々にもわかるでしょう。これは、ここで言う「旋法」の持つ音の世界が、自分の熟知の世界と異なることを感じたために起こるものです。これらが「旋法」の違いが我々に与える具体的な音のイメージと言えるでしょう。)
さて、問題の「変徴調」の旋法ですが、表4の通りで「「ファ#ソラシドレミファ#」の音でその響きをある程度確認することができます。勿論、このような音の並びではあっても、荆軻がどのようなメロディーを歌ったかが全く不分明なわけですから、易水のほとりで居並ぶ者達を男泣きにさせた音楽を、この音階から想像することはできませんが。(我々が短調の音階練習を耳にしても、例えばブラームスの交響曲を頭の中で鳴らすことは不可能であることのようなものですね。)ただ、この旋法の性格として想像できることとしては、変音を主音としたもので当時まだ耳新しい響きであったろうと思われること。『戦国策』に後世の注釈家が「(変徴)蓋し悲音」(燕三 鮑注)とこの時の音楽の響きを想像していることから、悲哀を帯びた悲しげな音調であったろうと思われること。そして、五声の音楽についての印象を語っているものなので間接的な判断材料としかなりませんが、『礼記』楽記の「徴乱れれば則ち哀し」も変徴調の響きを耳にした場合に通じるものがあるかも知れません。
以上の五声音階、七声音階の五つ乃至七つの旋法が高さを変えて様々な(西洋音楽流に言えば)調性をもたらすわけです。この状況は、長調の音階に対して、主音のドの高さが変わることによりハ長調がト長調へと変わったり、短調の音階に対して主音のラの高さが変わることにより、イ短調がホ短調となることに類似しています。その際、主音の絶対的な高さを決めていくものとして「律」があります。
■十二律
中国の音律制定の淵源は、太古の黄帝の時代に遡るという伝説があります。律管を作るために楽師を中央アジアの遥か遠方まで竹を取りに行かせ、その節の間を用いて三寸九分の管を作り「黄鐘の宮」としたというのです。(『呂氏春秋』古楽)三寸九分とは随分短い管ですが[注5]、『史記』の律書には「黄鐘律」の宮音は「九寸」の管から発するとでていますので、ほぼ二十センチほどの管から発せられるわけです。
ここで「黄鐘律」と言うのは「十二律」の一つです。それは音名にあたり、我々にとっての音楽の世界での「ハニホヘトイロ」です。これは、音階を表わすものではなく、一つ一つの音の絶対的な高さについた名前です。その十二種は、古くから知られていて(文献での初出は『国語』周語下とされます)、各律の名称は表2に挙げてあります。まず基準となる「黄鐘律」の絶対音高を定め、各律の高さは「三分損益法」により求めます。黄鐘律を宮とした場合(「黄鐘宮」)の七声と十二律との対応は表2の通りです。この十二律と五声・七声が組み合わされて色々な響きを作るという考え方はこの時代には既にあったようですが[注6]、それを系統だてて84の調性で説明する動きは南北朝以降のこととなります[注7]。
高漸離と荆軻の歌が拠った律については明らかではありませんが黄鐘律だったのでしょうか。歌と筑での音楽ですので、鐘や磬のように音高の固定された楽器とのアンサンブルよりは柔軟だったでしょう。
■最後に
以上「変徴の声」がどのような響きであったかを見ながら、先秦時代の五声、七声、十二律について見てきました。同様に考えますと、先に挙げた刺客列伝に続けて出てくる「羽声を為す」という表現も理解し易くなると思います。
(荆軻)又前みて歌を為りて曰はく、風蕭蕭として易水寒し 壮士一たび去りて復た還らず。復た羽声を為して忼慨す。
この表現も、3度高く転調し、「羽調」の旋法(表4参照)に転じて興奮した調子で歌ったと理解できるわけです[注8]。
このような、中国古代の音楽に関連する表現は、広く知られるものに限ってもたくさんあります。伯牙の琴の見事な演奏がどのような響きだったのか、『論語』の「鄭声」がどのような曲だったのか、「四面楚歌」では、楚歌がどのようなメロディーであったのか、項羽や虞美人が歌ったのがどのような歌だったろうか、「古詩十九首」の「新声 妙として神に入る」(其四)や「清商 風に随ひて発す」(其五)「戸に当たりて清曲を理む」(其十二)で聞こえていたのはどのような響きの曲か、等々まだまだ数多いと思います。しかし、それも音楽が時間の中で消えていってしまうという本質の前ではどうしようもない。せめて分かることだけでも確かめていきたいものだと思います。
◎参考文献
- 中国の音楽世界 孫玄齢著 田畑佐和子訳 岩波書店,1990年(岩波新書115)
- 王光祈音楽論著選集上册 馮文慈 兪玉滋選注 人民音楽出版社,1993年
- 中国古代音楽史簡編 夏野 上海音楽出版社,1989年
- 先秦音楽史 李純一 人民音楽出版社,1994年
◎注
- 『礼記』楽記「物に感じて動く。故に声に形る。」(人の心の活動は、外界の事物によってひき起こされ)感情を動かされ、それが音楽の響きとなる。
- 「変音(本来の音より低い音)を使った歌い方であった」とする考えもある。文献3 27ページ「在歌唱中使用了変音。」
- 文献3 79ページ。
- 七声音階に関するこの部分の記述は、文献4 189ページによる。そこには、曾侯乙墓(湖北省随県)出土の編鐘の銘文と測音結果から考えて、五声・七声の音階が演奏可能だったことも述べられている。
- 『太平御覧』565では「九寸」に作る。
- 『礼記』礼運「五声、六律、十二管、旋相為宮也。」『淮南子』天文訓「一律而生五音、十二律生六十音」
- 文献3 79ページ。
- 『戦国策』の当該箇所につき、文献3 29ページ「『復為羽声慷概』則明確指出了荆軻最后唱的是一首羽調式歌曲。」、 文献4 153ページでは「変徴調から羽調へと転調した」としている。また、『戦国策』燕三 鮑注「羽声其の声怒る。」