野狐禅を散らす 11月11日, 2013
まだ文章の持つ力も言葉の魅力も知らなかったころの事、「野狐禅を散らす」という表現に出会った。何となく分かるものの、どうもわかった気がしない。前後の文脈を追ってみても読み取れない。家にある辞典をすべてひっくり返しても意味がわからない。わからない分だけ何としてもその語句の意味を知らずにはおけなくなった。
当時高校生だった私は、自分が暮らしていた町の図書館は遠くて大変不便だったので、自転車で隣町の図書館に行ってみた。そこは、今は移転してなくなってしまったのだが、前庭に機関車が展示してあるようなありふれた場所で、とても自分の「荘厳な勉強」の役には立ちそうもないように思えたのを覚えている。不思議なことに、通っていた学校で先生にこの語句の意味を尋ねた記憶がない。聞かないまでも、言葉の意味を調べる際の基本的なやり方は知っていたろうに、手に余る難しい語に出くわして逆上し、自分独りで手当たり次第に調べてやろうなどと不逞にも考えたのかもしれない。
ところが、その図書館の辞典の棚の前に立ち、最初に見当をつけた辞典を繰ると、事は意外にも解決されてしまった。それまでの何日もの疑問が全て説明されている。例示されていたのも、驚いたことに今知りたいと思っていたまさにその詩人の詩句だった。これは、誰にでもある辞典、辞書との出会いであろうが、自分自身に起こった場合は常に新鮮である。覚えている限りでは、これが人生初めての「調べ物」だったかと思う。
私自身は、そのままこのような趣味の延長で、それこそ不謹慎とも言えそうな動機なのだが、漢字を読むこと、古典についてその魅力を話すことを仕事とするようになった。その後、ごくわずかな関わりではあるが、その疑問を氷解させてくれた当の辞典の増補作業に加わることもでき、持ってはいてもほとんど開いたこともなかった『全唐詩』などの大部の詩集を、一ページ一ページ読む機会を得ることもできた。
改めて考えてみると、古典を相手にしてきたからというわけではあるまいが、既知の事柄では理解できないものを本で調べることが単純に好きだ。そんな自分にとっての古典は、自分の内部での作業以前に常にまず他者が必要となるものである。つまり、本や人に聞かなければ自分でいくら考えてもわからないのだ。
今、国語科に対する時代の要請は、受動的な鑑賞型から、より能動的な表現型に向いている。そして、自分の考えや感情を表現するには、その前作業として「調べる」行為が不可欠であり、辞典類を調べる大切さが一段と増している、と言える。
高校生たちがよく口にし、また、世の中で繰り返されている陳腐な駄洒落でもあるが、「漢文はチンプンカンプン」だ。しかし、物事を知るということは、漢文に限らず、そう簡単なことではない。現代の高校生世代にとって、漢文は以前にも増して難しいようだが、わからないという前に少し自分で調べる努力をしてみなければ。調べてみて得られた結果は単純なものかも知れないが、結果以上の収穫が思わず得られる場合もある。そのように教え続けていくことができればと思っている。
さて、発端の言葉の意味であるが、「野狐禅」とは、
真実に参禅もしないで、悟つた風をよそほひ、他を欺き誑かすを以て、野狐に喩へてかくいふ。(『大漢和辞典』)
と、今では自分の机の脇に並べてあるその辞典は解説している。