陶淵明の「商音」について 03月25日, 2007
■はじめに
陶淵明に「荆軻を詠ず」という詩がある。
燕丹 善く士を養ひ 志は強嬴に報ゆるに在り
百夫の良を招集し 歳暮に荆卿を得たり
君子は己を知るものに死すと 剣を提げて燕京を出づ
素驥 広陌に鳴き 慷慨して我が行を送る
30句からなる五言の古体詩である。題材を『史記』刺客列伝に描かれる荆軻にもとめ、「惜しいかな剣術疎なり 奇功遂に成らず 其の人 已に没すと雖も 千載余情有り」と結ばれる。続く部分をさらに引用しよう。
雄髪 危冠を指し 猛気 長纓を衝く
飲餞す 易水の上 四座 群英を列ぬ
漸離 悲筑を撃ち 宋意 高声に唱ふ
蕭蕭として哀風逝き 淡淡として寒波生ず
商音には更流涕し 羽奏には壮士驚く
心に知る 去きて帰らざるも 且つは後世に名有らんと
知られた「易水送別」の場面である。「刺客列伝」の該当箇所も引用しておこう。
高漸離 筑を撃ち、荆軻 和して歌ひ、変徴の声を為す。士皆涙を垂れて涕泣す。又前みて歌を為りて曰はく、
「風蕭蕭として易水寒し 壮士一たび去りて復た還らず。」
と。復た羽声を為して忼慨す。士皆目を瞋らし、髪尽く上がりて冠を指す。是に於いて荆軻 車に就きて去り、終に已に顧みず。
宋意については見えないものの、「荆軻を詠ず」が刺客列伝の描写に基づいて筆が進められていることがわかる[注1]。ここで、詩中の「商音には更流涕し 羽奏には壮士驚く」は、「変徴の声を為す」、「復た羽声を為して忼慨す」に拠ったものである。五音と総称される宮・商・角・徴・羽で、「商」と「徴」は、本来別の音であるのに(「変徴」は「徴」より半音ほど低い音)、陶淵明は、なぜ「商音」と言って「変徴」と言わないのであろうか。
■「商」の用例
陶淵明の作品には五音の音名の出現は稀で、ほとんど例が無い。その中で「商」だけは上記以外に五例見られる。
- 「閑情賦」「悲商 林を叩ち 白雲 山に依る」
- 「貧士を詠ず」其三「原生は決履に納れ 清歌して商音を暢ぶ」
- 「辛丑の歳七月、赴仮して江陵に還らんとし、夜 塗口を行く」「商歌は吾が事に非ず 依依たるは耕に在り」
- 「擬古」其二「君に問ふ 今 何ぞ行くやと 商に非ず 復た戎に非ず」(戦争にでかけるわけでもなく)商ーあきないーに行くのでもない。「商」は、商売。)
- 「子に命ず」「御龍 夏に勤め 豕韋 商を翼く」(「商」は、「殷王朝」。)
【悲商は秋風】
1の「悲商」は、『礼記』月令、孟秋(7月)の「其の音は商、律は夷則に中たる」に依拠したものと思われる。「悲しい秋風」といったほどの意味であろう。「商」が秋の西風との関連で用いられる類似の例は、潘岳「悼亡詩」其二「清商 秋に応じて至り」、張載「七哀詩」其二「秋風 商気を吐き」などにも見られ、王逸の「楚辞」注にも、「商風は西風なり。秋気起これば則ち西風急疾なり」とある。この場合、楽音に由来するとは言え、五行思想で商が金に属し、西・秋に関わるものとの意識が強いことの表れととらえるのがよかろう。
六朝期までの「悲商」の語の一般的な使用状況を知りたいと思うが、『佩文韻府』が挙げるのは「閑情賦」のみであり、『文選』にも用例が無いため考えが及んでいない。あるいはこの語は、陶淵明が創出した語と言えるのかもしれない。
【商音は商頌】
2の「商音」は、今問題としている語であり、特に重要である。この語は、『韓詩外伝』巻1、『新序』節士篇などに残る、孔子の弟子原憲が「商頌」を歌った故事に典拠が求められる。[注2]
孔子の死後、清貧に甘んじた故事で知られる原憲を、兄弟弟子で裕福な子貢が訪ね、言った。「ああ、あなたのような立派な方が、どうしてこのように貧を病んでいらっしゃるのか」。原憲は、空を仰ぎ見て答えた。「私は聞いています、財産の無いのが貧、学問を積みながら実行できないのが病であると。私は貧しいが病んではいない」。子貢は、たじろいで恥じいり、挨拶もせず立ち去った。「原憲 乃ち徐に歩き杖を曳き、商頌を歌ふ。」(『韓氏外伝』)
この「商頌」は、『詩経』の「商頌の詩」を意味するものと考えられている。しかし、状況を考えるとどうもふさわしくない。「商頌」と言いながら『詩経』を意味しない場合があるのではないか。『韓詩外伝』、『新序』が原憲の故事の後に挙げているのが、邶風「柏舟」の詩の一部であることも、「商頌」を『詩経』商頌とはとらえていない可能性を示すものであるように思える。
「商頌」が『詩経』のそれを意味するわけではないとすると、「商頌」、「商音」はどのような意味なのか。断定できるだけの材料は無いのだが、これは「胸中の悲しみを表した歌」を意味するものと考えている。「清歌」は、「高い声で歌った」のであろうから(注3)、陶淵明のこの句は、「悲しげに甲高く声を引いて歌った」と理解するのがよいと思う。『文選』には「商音」、「商頌」の用例は無い。
【商歌は悲しい調子の歌】
3の「商歌」は、春秋時代の衛人甯戚が、斉の桓公に認めてもらいたいと考えて歌った故事を踏まえた語で、彼は企図のとおりに異能を見込まれ、その重臣となるのである。『蒙求』の「甯戚扣角」でも知られるこの故事は諸書に言及がある。本文が歌に触れているものに限っても、『蒙求』以外に、『呂氏春秋』挙難、『淮南子』道応、『新序』雑事などが挙げられ、注釈がこの歌を引くものも数えると『史記』、『文選』等々多書にわたる。参考までに、故事の要旨を『淮南子』道応に拠り挙げておこう。
甯戚は、 斉の桓公に仕官したかったが、貧しかったため伝-つて-を求めることもできず、行商して斉国にでかけ日暮れに城門の外に野宿していた。その日、桓公は郊外に客人を出迎えて城に戻ってきた。甯戚は、牛の世話をしながら車の脇に居たが、桓公がやってくるのを望み見ると、悲しげに牛の角を叩きながら早口に「商歌」した。桓公は、それを聞いて異能を認め、大夫とした。
陶淵明は、この故事を承けて「自分を売りこむための商歌は吾が関心事ではない」と表現したわけだ。ここで、「商歌」とはどのような歌を言うのだろう。『史記』鄒陽伝の索隠には、
(甯戚の)事は呂氏春秋に見ゆ。(集解に言う)商歌は、商声を為して歌ふを謂ふなり。或いは云ふ、商旅の人の歌なりと。二説並通す。
とある。「商声を為して歌ふ」というのは、荆軻の「変徴の声を為す」と同様に、「商調(商調式)」で歌うことである。また、或説の「商旅の人の歌」とは、行商の物売りの歌のことであろう。俗謡にかこつけて、自らを認めて欲しい気持ちを歌うというのは、『史記』馮驩の「長鋏の歌」を思わせる。しかし、甯戚の故事の「商歌」は、これらの説明では十分に思えない。
『呂氏春秋』挙難は、原文を「撃牛角疾歌」に作っていて、「商歌」とはしていないため幾分事情が異なるかもしれないが、高誘注に、「歌は碩鼠なり」として、『詩経』碩鼠を引いている(『後漢書』馬融伝注引『説苑』も同様で、「撃車輻而歌碩鼠」として碩鼠を歌ったとしている)。この詩は、重い税を課する君主を大きな鼠に喩えて非難する詩であり、悲嘆の歌とも言える。また、『史記』鄒陽伝集解に「応劭曰はく」として次の歌が引かれる。
南山〓[石+干」たり 白石爛たり 生まれて堯と舜との禅りに遭はず 短布単衣 適に骭に至る 昏より牛に飯して夜半に薄る 長夜曼曼として何れの時にか旦けん
これも牛飼いとしての辛い境遇を嘆く歌と言えよう。類似の歌が『文選』の成公綏「嘯賦」李善注などにも引かれている。これらの引用されている歌を通して考えると、「商歌」は、「商音」と同じく、何かの歌を悲しげに歌ったと考えるのがふさわしいのではないだろうか。『後漢書』蔡邕伝所載の「釈誨」では、「甯子清商の歌」としていて、「商歌」が「清商」と言い換えられているのもその証としてよいものと考えている。
『文選』には、陶淵明以外の「商歌」が2例あるが、共に甯戚の故事による句であり「商歌」の語義を考えるための糸口にはなりにくい。
- 曹植「七啓」「此れ甯子 商歌の秋。」
- 王褒「四子講徳論」「昔、甯戚 商歌し以て斉桓に干む。」
■商音と変徴
陶淵明が荆軻の「変徴の声」を「商音」として引いた理由を考えるためにその「商」の用例を見てきた。以上を要するに、
陶淵明の「商音」、「商歌」という語において、「商」は、「悲しみを帯びたもの」を抽象的なイメージとして表すもので、五音の商や「商調の音楽」を表すものではない。また、「変徴調」の悲壮な音調を、「商音」と表現したわけで、対句の「羽奏」が『史記』の具体的な表現を襲って「羽調の音楽」を表すのとは違う発想で書かれていることになる。その背景には、五行思想で「商」が秋に配当されていることに表れているように、「悲」が「商」の属性と意識されていたことにあるものと思われる。
触れることができなかった商調(商調式)がどのような音列であるかという点や、変徴調から羽調への転調がどのようなものかという点については、また別の機会にまとめたいと考えている。[注4]
◎文献
- 『靖節先生集』中華書局,1973年
- 『中国古代音楽史稿』楊蔭瀏 人民音楽出版社,1981年
- 『淮南子』 上海古籍出版社(諸子百家叢書),1989年
- 『呂氏春秋』 上海古籍出版社(諸子百家叢書),1989年
- 『韓詩外伝』,『新序』 漢魏叢書本
◎注
- 宋意という人物については、『淮南子』泰族に「高漸離、宋意、為に筑を撃ちて易水の上に歌ふ」とある。また、『文選』雑歌で荆軻の歌として「荆軻歌ひ、宋如意 之に和して曰はく、…」とあるのも同じ人物を言うものと思われる。
- 『新序』は「杖を曳き、履を拖きて商頌を行歌す」としていて、表現を少し異にしている。
- 声の「清濁」をめぐっては、音色の清澄さで語られることが通例であろうが、これらの語の意味の中心は「高低」にあると思われる場合が多い。例えば、『宋書』楽志に「歌声濁者、用長笛長律、歌声清者、用短笛短律」と説明されることや、漢代の「相和歌」の清調は、平調に対して全音高い調子であること等が挙げられる。(この「清調」は、南北朝期に「清商調」と呼ばれるもので、平調の商を主音として、オクターブ上の商、つまり清商までの音階を用いるものである。)
- この事柄については、以前、簡単にまとめたことがある。「漢文教室」第184号 大修館書店 「『変徴の声』とはどんな音楽か」,1998年5月