孟嘗君という呼び名 04月23日, 2000
中国の文章での人物の呼び方の多彩さについては今さら言うまでもないだろう。ある時は姓や名で呼び、またある時は字や地位・役職・諡・号・爵位・排行・愛称で呼ぶ。実に様々な場合が見られ読解を難しくしている。
ここでは、「鶏鳴狗盗」の故事等で広く知られる戦国時代の斉の王族田文(?—前279?)につき、その「孟嘗君」という呼び名の由来をたどり、更に幾人かの呼称についてまとめてみたい。
1 孟嘗君
田文の呼び名に関連して『史記』(巻75孟嘗君列伝)には、
A 孟嘗君、名は文、姓は田氏。
B 嬰卒し、諡して靖郭君と為す。而して文果たして代はりて薛に立つ。是を孟嘗君と為す。
C 文卒し、諡して孟嘗君と為す。
とある。ここで「嬰」(エイ)とは、孟嘗君の父親、田嬰のことである。また、「諡」は、「おくりなして」と読んでおくが、「号」と同義として読むべき所かも知れない。(呂不韋列伝の「諡為帝太后」に付された唐代の注釈である「索隠」に「蓋し号せしのみ」とある。)Cについて「索隠」は次のように説明する。
按ずるに、孟嘗君 父を襲ひて薛に封じられ、号して孟嘗君と曰ふ。此に諡と云ふは、非なり。孟は字なり。嘗は邑名なり。『詩』に云ふ、「常と許に居り」と。『鄭箋』に、「常、或ひは嘗に作る。嘗邑は薛の旁に在り」と云ふは、是れなり。
(孟嘗君は、父の封邑であった薛を継ぎ、孟嘗君と号した。その為、ここで「諡」と言うのは正しくない。孟嘗の孟は字–あざな–であり、嘗は領地の名である。『詩経』魯頌の閟宮に「常と許に居り」とあるが、後漢・鄭玄の注に「常は、嘗とも書き、嘗邑は薛付近の地である」と言うのがそれである。)
田文は、父の跡を継いで一家を立て孟嘗君と号したのであり、死去に際し、諡として与えられたのではないというのだ。また、閟宮の詩は、魯の僖公が国の始祖である周公旦の廟を修理して先祖の祭祀を継いだことを祝い、魯国の安泰を誇ったもの。その本文に「(僖公は)常と許に居り、周公の宇を復す」とあり、鄭玄の注は、右の引用の後に、
『春秋』魯荘公三十一年(前663)「台を薛に築く」とは是れなるか。周公 嘗邑を有するは、由る所未だ聞かざるなり。六国の時、斉に孟嘗君有り。薛を食邑とす。
と続く。つまり、「索隠」は孟嘗君という呼び方について、
- 家を継ぐ時に称したもので、死後付けられたものではない。
- 孟はあざ名である。
- 嘗は領地の名で、薛付近にあった常のことである。
と言っている。この「孟嘗君」という呼び名は、『通典』の言い方を借りれば、「封爵の外に在り別に美号を加え」たもので、君号と呼ばれる。戦国時代の君号は、公子が家を立てる際に名乗ったもので、実際の領地とは別の、名目上の領地によったものである。「戦国の四君」と呼ばれ孟嘗君と併称されることもある趙・平原君趙勝、魏・信陵君魏無忌、楚・春申君黄歇などの例や、秦の涇陽君、高陵君など多くの例が挙げられる。ちょうど我が国の宮家の「宮号」と似たもののようだ。君号は、後には功績ある臣を称揚する為に名目上の土地に因り与えられるようになり、更には、秦の公孫鞅が於・商と付近の15箇所の領地に封じられて商君の号を与えられたように、実際の封邑を冠する例も現れてくる。
孟嘗君の実際の封邑は薛(山東省滕県の東南)だが、名目上の領地である孟嘗の地についての詳細は不明である。「史記会注考証」(以下「考証」)は、中井積徳を引き次のように言う。
孟嘗は、蓋し封邑の名なり。其の地獲ざれば、記載伝はらざるのみ。田嬰、四十余子。而して文は賤妾の子なり。蓋し叔・季に在りて、孟を字とするの理無し。
(孟嘗は多分封邑の名であろうが、その場所が不明であるため記載されていないのだ。田嬰には四十数人の男子があり、田文は賤妾の子であり、兄弟の中で年若かったはずだ。およそ子の中で年下のものが、「初め」「大きい」意の「孟」が字である理はない。)
薛は、春秋時代の侯爵の国で、黄帝の子孫の奚仲が封じられたことに始まり、戦国時代には斉に含まれていた。その墟は薛陵とも呼ばれる。(『資治通鑑』周・烈王六年胡三省の注)また、「常」については、『史記』越王句践世家「常・郯之境」の「索隠」に、「常は邑名。蓋し田文の封ぜられし所の邑なり。郯は…。二邑は皆に斉の南の地なり」とあり、鄭玄の言う地と同一のようである。もともと、嘗の字が常と書かれる例は古文に散見するので、(常が嘗となっている例はあまり見かけないという事情はあるが)、孟嘗という呼び名は、薛付近のこの地に由来するものと一応考えてよかろう。しかし、他に材料が無いこともあって、孟の文字が添えられている理由については、今は保留とせざるを得ない。あるいは、憶測に過ぎないが未知の孟嘗という土地が存在していたのかも知れない。寧ろそのように考える方が他の例を見ると当然のように思える。
2 靖郭君
さて、以上の事情は、靖郭君田嬰についても同様である。 『史記』は、先に挙げたように(前掲B)田嬰の死を記している。しかし、この「諡して靖郭君と為す」に関しても、死後に付けられたものではなく、生前からの号と考えられる。実際の封邑である薛以外に靖郭という土地を名目上の封邑として与えられていたのである。靖郭が地名であることについては、「索隠」が「靖郭、或いは封邑の号」と言った上で、前漢・文帝が駟鈞を靖郭侯に任命している例証を挙げている。(ただし、『史記』孝文本紀のテキストでは「清郭侯」となっている。『漢書』は「靖郭侯」。)この場合も、その地がどこであったかについては不明である。
3 平原君
趙・恵文王の弟の趙勝については、その封邑は東武城(武城とも言う)であったが、孟嘗君と同様な状況で平原君という呼び名が知られている。この平原は、秦漢の平原県・平原郡にあたると思われる。(曹相国世家に付された唐代の注釈の「正義」は『括地志』を引き、「平原故城は徳州平原県の東南十里」と言う。)今の山東省徳州市の南に平原県があり、その付近の土地である。
4 信陵君
魏・昭王の公子の魏無忌は、昭王の死後、異母弟の安釐王が即位した時に、信陵君に封じられている。「索隠」には、
『地理志』を按ずるに信陵無し。或いは是れ郷邑の名なり。
とある。また、「正義」には「信陵は地名」とあって、「考証」は洪頤煊を引き、『水経注』に言う寧陵県の西の葛がその地であるとしている。しかし、夷門の門番の侯生や肉屋の朱亥との逸話を見ても、信陵君は魏の都の大梁で暮らしていたようであり、信陵に実際の領地があったわけではない。この信陵君については、名目上の領地がどのように扱われたかを示す事件が残っている。
趙の平原君の夫人となっていた信陵君の姉は、魏の安釐王の20年(前257)に秦が趙の都邯鄲を包囲した時、救援を求める知らせを魏王と信陵君に寄せていた。しかし、秦の制裁を恐れた魏王は救援に消極的であった。将軍の晋鄙に救援軍を率いて出発させながら、征路の中途で駐留を命じ趨勢を見極めようとしていた。信陵君は、王命と偽って司令官を交代させようとしたが、晋鄙は疑念を持って役目を譲ろうとしない。そこで彼を撲殺してしまい、奪い取った8万人の兵を率いて邯鄲を救ったのである。魏軍を帰国させた後も、王に責められることを恐れて自らは趙に残っていた。また、趙王は救ってくれたことに感謝して城を与えると、魏でも信陵を領地として奉じたというのである(魏公子列伝)。
この末尾部分は、原文では「趙王〓[高+阝]を以て公子の湯沐邑(その税収を沐浴・化粧の費用にあてる地)と為す。魏も亦た復た信陵を以て公子に奉ず」となっている。魏王の側でも宥免を示そうとしたのだろう、信陵を再度奉じている。名目上の地であったものを実質的な封邑として認定したことを言っているのである。
5 春申君
魏の黄歇はこれまでの人々とは異なり、王族ではなかった。魏の頃襄王に仕え、博識で弁が立つことから秦への使者となり、得意の弁説で楚への攻撃を止めさせ、逆に同盟を結ばせた人物である。その同盟の為の人質として太子時代の孝烈王と共に秦に行き、命がけで太子の危急を救った功績から、即位した孝烈王により宰相に任命され春申君に封じられたのである。領地は淮水の北の十二県を賜った。「正義」、「考証」は言う。
正義 四君の封邑は、検するに皆獲ず。唯だ平原のみ地有り。
考証 中井積徳曰はく、「四君皆封号にして諡に非ず。『呉志』に云う、建興二年、鳥春申に見はると。春申の地名たること決まれり。」と。
領地として春申を与えられたというのである。『三国志』呉書巻48、建興2年(253)11月に「大鳥五 春申に見はる」との記事があり、それを瑞祥として翌年五鳳に改元している。
6 蘇秦・張儀
合従連衡で知られる蘇秦と張儀についても本稿に関連する事柄がある。蘇秦が六国の合従を定めて趙に戻ると、粛侯は彼を武安君に封じた。この武安は、邯鄲の西の地。蘇秦がその地を実際に治めた記録はない。名目上の封邑と思われる。(秦の武将白起も功績により昭王より武安君に封じられているのだが、同様にそこを統治した形跡はない。)また、連衡をまとめた張儀は、秦・恵王から五つの領地に封じられ、武信君と号したというが、これも名目上のことである。この武信が地名であることは、項羽の季父の項梁が、自ら武信君と号した事にも表われている。
7 最後に
以上、孟嘗君を中心として戦国の君号が名目上の領地を冠して称されたこと、多くの場合にその地は何らかの理由で選定されるものであるようだが事情が判然としないこと、その地の所在は不明のものが多いことを見た。まとめると次のようになる。
- 公子が名目上の土地を冠して与えられる美号である。
- 勲功ある家臣がある種の爵位として、名目的な領地により与えられる。
- 功臣が実際の封邑により与えられる。
これ以外に、君号が与えられた場合としては、王昭君や卓文君のような女性の例が数多くあるがここでは触れない。